のおとのノート

若者の”勇気ある一歩”を見まもる「のおと」主宰者のそこはかとない書き散らかしです。

橘家

2013年4月

いじめは、多様な価値観を認めない集団の中で発生します。
集団はしなやかで自律した個人が構成するものが理想だと思ってます。
 
学校には社会に人を測る基準値押しての
「貧富」や「雇用•被雇用」という価値観は存在しません。
その代わり、それとは別に
「指導」と言う名の平等•均一化、
集団の「空気」への服従、
学力•スポーツの優劣…。
というようなものが人の価値を測る基準になっていることがあります。
 
すべての人にオーダーメイドのようにピッタリな群れなど
存在しないのが当たり前です。
群れに合わない人が出るのは自然なことなんです。
 
「コミュニティーに属するのは、ある価値観に適応すること」
との考えで様々なものが組み立てられてしまったら、
群れに適応しているかが、重大な意味を持ってしまいます。
つまり、不自然なことを強いられる人が必ず出る仕組みなのです。
 
選択権を与えられないままクラスに配属され、
その場を支配する空気と合わない、あるいは教員や同級生と
上手くいかないなんていうのはもうほとんどが運不運の問題です。
その時点で他者を受け入れられなかったり、
集団に属することがストレスなら、
学校に「適応」させるより優先的にやるべきことがあるはずです。
発達の段階はその子ども毎に違うのですから。
 
くだらない価値観に合わない人は排除の論理で追い詰める。
他者に対する好き嫌いは構わないけれど、やたら攻撃したり、
他人を共犯者に引き入れるなんてことはとても卑怯な事。
嫌いなら関わらなければよい。それだけのこと。
友人の友人だからといって自分も友人になる必要はない。
そこを恐れるから歪んだ関係が生まれてしまうのでしょう。
 
「友達の多さが人の価値だ、」
なんて事を本気にしてたらそりゃ多くの人が疲れますよ。
 
子供が子供にやるならまだしも、
大人がくだらない集団の価値観に合わない子供を排除するなんて
ワタシは言語道断だと思います。
それが教員ならば「どっち向いて仕事してるんだ」という話です。
 
たとえば、自分の感情のまま生徒に暴力・暴言を浴びせたり、
反省文を書かせれば「仕事」が終わったと思うようなボンクラさんは、
教育に携わらなほうがよろしいかと思います。
 
多様な価値観を認めていたら手間がかかって面倒です。
「同じ」であるものは扱うのが楽なのです。
だから「みんななかよく」同じであることが正常だと設定する。
そんなことあるかい、って話です。
もう根本的に歪みが生まれる構造なんだから、
対症療法やってもしょうがないんです。
 
歪みひずみが大きくなり、淀んでしまった集団は、
人が死んでも、自分たちの利益を守ろうとするほど
感覚がおかしくなってしまうんです。
入試を即中止し、空気の入れ替えに着手した橋下市長の
桜宮高校に対する対応は、
決して極端なものではなくむしろ控えめであったとさえ思います。
 
「入試を受けられなくて狂う生徒の人生をどうする」だって?
大学の認可取り消しの時の安倍現首相のコメントも同じような
ものでしたが、
人生なんか大小様々なもので左右されっぱなしや、と想います。
多様な価値基準を認めないから「1つの道が消えたら即絶望」
というような硬直した思考しかできなくなってしまうんです。
安倍のコメントはマキコ(notショムニ)を攻撃したいがために
若者の人生をダシに使った卑怯なコメントに過ぎないと思いますが。
 
 
ワタシは、職業柄
人間関係で悩んでいる中学生と話す機会があるときには、
 
「教員も同級生も、中学の人間関係なんてこの先クソの役にも立たない。
捨てても構わないものにエネルギー使うの勿体無いよ」
 
と伝える事があります。また、
 
「大丈夫、出会う人の9割とは合わないから。」
 
とも。とにかく無理するのが一番疲れるんですから。
自分が本当に思っていることを伝えたまでなんですけどね。
 
本人に問題があってもなくても、集団に馴染めなければ
一旦合わない環境からは抜けだして、コミュニケーションであったり
モラルであったり、今後生きていくために必要なことを
優先順にトレーニングする機会を設ける必要があると思うんです。
 
違いがありすぎたら同じであることに意味がなくなります。
いや、そもそもそんな価値観存在しません。
そういった場所も、あるんです。
 
”キミの今いる場所だけが世界じゃない”
この世に無数にある世界の中の、
ほんのちいさなちいさな、ひとつ。
 
一つの道がダメなら別の道を。
希望の反対は失望、絶望じゃない。
見失ったら、別のさがそうよ。
 
 
たくさんの悩んでいる若者たちに伝えたいことです。