2013年1月
ツイッターに書き散らしたものをメモ代わりに張り付けているだけです。
スルーしてください。
満たされた退屈よりも不自由だが創造的な状況を選べ
「せんたく」
2012年11月号
【学校通信用に書いた文章です】
最近、私が大好きだったドラマの再放送がBSではじまりました。
「王様のレストラン」(1995)です。
この作品は脚本を担当した三谷幸喜の出世作。
伝説のシェフであったオーナーが死去し、従業員の質が下がって客足が遠のいてしまった
フランス料理店で、新しいオーナーになった青年と彼の願いで復帰した伝説のギャルソン
(給仕長)が店を立て直す姿をコメディータッチで描いた物語です。
その第1話で伝説のギャルソン・千石が理不尽な客に対し冷静にこう言い放つのです。
「私は先輩のギャルソンに、お客様は王様であると教えられました。
しかし、先輩は言いました。王様の中には首をはねられた奴も大勢いると」
“お客様は神様”という言葉を履き違え、金さえ払えば全能の神のごとく思うがままに
振る舞っても良いだろうという態度の人が増えていると聞きます。
最近では「モンスター・カスタマー」と呼ばれているようです。
私も一般企業に務めている時期は、コールセンターでクレームの対応や
全体の集計・分析などを行なっていましたが、罵詈雑言は勿論のこと、
脅しに近い理不尽な要求など日常茶飯事のように見聞きしてきました。
客と店員であろうが、他人とのコミュニケーションにおいて、
人として最低限のモラルやマナーは不可欠です。
自分の主張が正しいかどうかを常に判断する、間違っていれば素直に謝り、
自分のために労力を使ってもらえば感謝する。
この「当たり前」のことが大人でも“引っ込みがつかない”ことや“くだらないプライド”が
邪魔して意外と出来ていない事が多いのではないでしょうか。
特別なことが出来る人よりも、
当たり前のことをさりげなく出来る人のほうがカッコイイと思います。
生徒たちには「カッコイイ大人」になって欲しいと願っています。
2012年10月
ある非常識な行為を報じたニュースの感想の後
優先順位勘違いして大事なものを置き去りにした時点でただのバカ」
「人としてバランスは保って欲しいもの」
というようなことを書きましたが、
これって趣味だけの話ではなく、仕事においても言えるなぁと思いました。
「どっち向いて仕事してるんだ」というような事って
客としてだったり、同業他社、もしくは自社の上司や部下に対してでも
見聞きした経験のある人は多いのではないでしょうか。
教育委員会や経営者の方ばかり見て人としての判断を失った教育現場。
組織の論理のみで動きひとりの人間としての判断を完全にOFFにする職場。
私は、10年以上前、ある大きなトラブルに巻き込まれました。
内容は相手の大きな犯罪行為でした。
明らかに先方に非のある内容でしたが、経営者は全面的にこちらを悪者にし
事を収めました。
自分の仕事内容の根幹に関わる部分を否定されるものでしたが、
まだ修行中に近い身であったので堪えました。
その時、組織に所属しているという感覚は捨てました。
自分の足で立ち、自分の言動は自分で完全に責任を持って仕事に向かう
ということを鮮明に意識するようになったのです。
数年後、私がいた組織は給料未払いのまま消滅するのですが、
未払いから半年間、自分の判断で私は仕事を続けました。
(3月までやってはじめて「学校」と言えるからね)
その時のエピソードは山ほどあるのですがまた別の機会に。
その時の経験がその後の自分の武器であり、生きる指針になっていることは
間違いありません。
何のために仕事をするのか。そもそも仕事ってなんだ。
自分は何によって喜びを得るのか。
そういったものがハッキリしただけでも人生儲けものだと思っています。
結局、私は組織に所属している感覚が上記の一件以来消え失せたので、
仕事をする上で気持ちの負担が少なくなりました。
そして、以前よりいい仕事が出来るようになり、組織に利益をもたらす
こともできました。
結果としてある程度自由な振る舞いが容認される立場になりました。
今の場所でもかなり自由にやらせてもらっています。
常に意識しているのは、全ての責任を自分が背負うということです。
組織に寄りかかって生きたり、立場や肩書きを守ろうという気はさらさら
ありません。少しくらい有ったほうがいいと思うのですが・・・。
働き手としては決して褒められたもんじゃないのは分かっています。
それは十分理解した上で、一番自分がストレスなく社会に貢献できる方法を
模索した結果なのです。
そんな自分ですから、ひとりの生徒の命が消えたり脅かされたりしているのに、
組織の論理で平然と詭弁を弄するエセ教育者に激しい怒りを感じるのです。
組織人である前にひとりの人間としてどうなのか。
人間としての感情をスポイルするような組織ならそれは世の中に不必要だ。
そう思うのです。
結局何が言いたいのかわからない自己弁解みたいな文章になってしまいました。
すんません。
9月号
しごと
「今日は仕事しなかったなぁ」って日があります。
それはずっと生徒対応をしていた日です。
そしてとても充実感のある一日でもあります。
僕にとって仕事とは、PCに向かって様々な書類を作ったり、
生徒に向き合うことに勿論責任は感じています。
でも、職業としての義務感は感じていません。
ひとりの大人として当たり前のように若者に対する
責任を果たしているだけ、しかも大きな喜びとともに…
こういうのを「使命」というのかなぁ、と。
ならばもっと沢山の若者に向き合わなければと感じます。
特に
「処世術」という名の嘘やゴマカシで浮世を上手く
渡っていける奴がデカイ顔をしてる世の中で、
「不器用だけどストレートに生きているが故に困難に
ぶち当たっているような若者」が輝く姿を見たいのです。
「こいつらが笑って生きていけないような世の中は嘘だ」
と思える若者のために自分を捧げたいと強く思います。
一生マイノリティーで縁の下の力持ちで結構。
彼らの輝く光でまた別の若者に道を示すことが出来るような、
優しい月のような存在が僕の目指す姿です。
2012年9月
先週末は女子生徒が芸大のAO入試を受けました。
日中は外に居たのですが気が気ではありませんでした。
金曜日、最後の面接練習をしました。
昨年の12月に転向してきた穏やかでおとなしい子です。
当初は自分を客観的に見つめることがまったく出来ず、
長所を考えようとしたら過去の出来事が原因で涙が止まらなくなるなど
心が自己肯定を激しく拒否してしまうような子でした。
それから8ヶ月。たくさん話してきました。お茶飲みながら。
面接練習では嫌でも自分のことを話さなければなりません。
まだ自分を認めることは苦手だし、他人から聞いた「自分の長所」
納得はできないけど、その現状を明確に言葉にすることが出来るました。
「芸術」という表現ツールを使っていきたい、だから自分が学ぶ学
芸術以外に考えられないんだ、と噛み締めるように話しました。
その姿に僕は感慨を
うん、なんかジーンとしてしまったんです。
「芸術とは人間の、或いは己の根源を見つめる学問」
だとするならば
彼女はそのスタートラインに立っていることは間違
「表現」とは、自分の想いや内面を何らかのツールを使って
アウトプットする行為。
ある人は文章を書いて、またある人は楽器演奏で、写真で・・・。
僕の特異な表現はしゃべり、生徒の得意な表現は絵。
アウトプットしたものをさらに自分が客観的に眺めて
自分というものを確認する。
自分を把握すれば生きることが少し楽になるのではないかと思います。
入試は2日間のワークショップと最後に面接。
「実力以上のものは出せないんだから開き直ってやっておいで」
と送り出しました。
正直そんな簡単に結果が出るわけないのは本人も承知の上です。
どうか本人が良かれ悪しかれ納得のいく2日間になるようにと
ただ祈る
週が開けて今日登校したので話を聞いたら大失態はなかったとのこと(笑)
しっかり自分を見つめることが出来る表現者になってほしいなぁ。